Ryo〜call you, again〜



「お父さん、またあのはなしきかせて」
「全く、お前達は本当に『桃太郎』の話が大好きだな」
「だってわるいおにをやっつけちゃうんだよ!かっこいいよ!」
「仕方ないな。これを聞いたら、ちゃんと寝るんだぞ」
「はい!」
「――昔々あるところに、おじいさんとおばあさんがいました。おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました」
「そこはつまらないから、おにたいじにいくところから!」
「分かったよ。――大きくなった桃太郎は、おばあさんからバナナをもらい、鬼ヶ島を目指して旅立ちました」
「どうしてバナナをもらったの?」
「さあ。どうしてだろうな」
 それは、遠い昔の、ありふれた日常だった。
いつから狂ってしまったのだろうか。どこから違えてしまったのだろうか。
 気付けばもう後戻りできないほどに事態は深刻で。私には、ささやかな抵抗しか出来なかった。――父の奇妙な昔話を、情報{データ}に組み込むことしか。
 思えばそれは、あの日々を取り戻したいという、私の子どもじみた願いだったのだろう。

 *        *              *              *        *

 その日、涼は何時になく真剣だった。
「……………………」
生活感のない私室にて。涼は腕組みをして、ベッドの横の小さな机を凝視している。眼鏡の奥の瞳は、すっと細められ、感慨にふけるような、腫れ物に触るような、簡単に言うと複雑な表情をしていた。
 静寂に包まれた室内。涼は机上の何かを手に取ると、
「さて、どうしようかな……」
指でその表面をなぞる。薄くほこりがたまっていたが、傷は一つも付いていない。よほど大切にしているのだろう、手の中のそれは――
「お父さん、掃除しに来たわよー!」
「わあっ!りょ、涼子、もう来たのかいっ?」
もとい、大切にしていたのであろうそれは、勢いよくドアを開けた少女の来訪と共に、床に滑り落ちた。ガラスの割れる高い音がした。
「あー、まったくお父さんは世話が焼けるんだから。手、切れちゃうから触らないで」
「ほとんど君のせいじゃないか。君こそ、怪我しないでくれよ」
 涼はガラスを片付けるふりをして、小さな紙切れを拾おうとした。散らばったガラスの破片に交じった、一枚の写真。どうやら先ほどまで涼が持っていたのは、写真立てだったらしい。
「何それ」
涼が白衣のポケットにしまおうとした写真に気付いた涼子は、
「これ、昔のお父さん……?」
涼の手から写真を奪い取り、枠に収まった被写体を見つめた。好奇心旺盛な娘の姿に、
「……あまり、見られたくはなかったんだけどね」
涼はため息をついた。
 写真に写った人物は三人。
 一人は涼。今とは違い、髪を下ろしている。相変わらずの白衣と眼鏡だったが、雰囲気は幾分あどけない。
 一人は男性。少年、といっても良いだろうか。面影は涼に似ているが、着ているものが違う。恐らく学生だ。
 一人は女性。柔らかそうな銀髪が、光に輝いている。涼と同じように白衣を着ていた。
 ばらばらな三人の唯一の共通点は、笑顔。
 涼はぎこちなかったが、それでも幸せそうにカメラを見つめていた。傍らにはあの女性。二人の肩を抱いて、中央に立つ男性も笑みを浮かべていた。
「………………」
涼子は静止した一場面に見入った。自分の知らない父の姿が、そこにはあった。
「気になるかい?」
「え?」
横からスッと写真を持って行かれ、涼子は口を尖らせる。
「お父さんは、そういう物を取っておかない人だと思ってたから、ちょっと……驚いただけよ」
そんな涼子の言葉に、ふふ、と微笑。涼は写真を机に置くと、
「だから見られる前に隠そうと思ったんだよ」
部屋の入り口であり、出口に向かう。
「掃除、頼んだよー」
 いつものように、手をひらひらさせて。電気の点いていない廊下に、涼は吸い込まれていった。

 *        *              *              *        *

 時は六年ほど遡る。
 大きなモニターのある研究室に、白衣を着た男がいた。尤も、長い髪と華奢な体格の所為で、後ろ姿は女に見えたが。
 室内は、外とあまり変わらない。日の沈んだ後の青白く光る空のような、そんな明るさだ。
 周りには誰もいない。他の研究員は、勤務時間を終え家路についた。三十分ほど前に、お疲れ様でした、と一人一人に声をかけられたことにも、男は気づいていなかった。
 三十時間五十八分。
 男は何かに憑りつかれたかのように椅子に腰掛け、キーボードを叩き続けている。睡眠も、食事もとっていない。男からは人間らしさがごっそりと抜け落ちていた。まるで自分が機械の一部であるかのように、着実に作業を続けていた。
 しかし、それ以上に異色だったのは、男が楽しそうにモニターを見つめていることだ。目の前で組み上がっていく文字の羅列を、嬉々として見つめている。
 ――人付き合いを知らない天才。
 それが他の研究員からの、男に対する評価だった。
 「………………出来た」
およそ三十一時間ぶりに、男はキーから指を離した。驚異の集中力である。
 興奮を抑えきれず、男はすぐさま出来上がったプログラムを起動させた。
 太陽が――あるいは月が、一息のうちに顔を出した。そう例えられるほど目映い光が、モニターから放出され、
「ぐっ……」
男の意識は、そこで一度途絶えた。