Ryo〜call you, again〜



 白い、世界。
 男の目に飛び込んできたのは、そんな空間だった。
「……ここ、は…………?」
自分がベッドに横たえられているということだけは、かろうじて分かった。周囲に目をやるが、ぼやけてよく見えない。男は自分の顔に手をやって、眼鏡がないという事実に初めて気付いた。
 手探りで、眼鏡を探す。力のない手が、何もない所を往復した。
「あ、眼鏡ですか?どうぞ」
唐突に、眼鏡が手に触れた。男は礼も言わず、それをかけると、
「…………?」
クリアになった視界の中に、自分と同じように白衣を着た女の姿を認めた。
「すみません、眼鏡、割れちゃうといけないと思って、私、ずっと持ってたんです」
柔らかそうな銀髪を揺らして、その女が言った。
「君は…………」
「私ですか?そう言えばまだ自己紹介してませんでしたね。本日付でこの研究所に配属されました、雪子といいます。よろしくお願いします、涼さん」
 涼と呼ばれた男は、怪訝な表情を見せたが、
「よろしく……」
彼女の勢いにつられて、挨拶を返した。
 雪子と名乗る女は、にこやかにほほ笑むと、
「あ、いけない!お鍋、火にかけっぱなしだった!」
途端に慌てた表情になった。雪子はぱたぱたと足音を響かせ、部屋を出て行った。
 一人部屋に残された涼は、
「研究員の増援を要請した覚えはないが……」
まだはっきりしない頭を無理矢理思考の中へと持っていく。
「とりあえず状況の整理を……」
 自分が覚えているのは、完成したプログラムを起動させたところまで。強い発光の後、気が付いたらここに寝かされていた。周囲の白い天井やシーツから推測して、ここは研究所内の医務室。何度も運ばれているから間違えるはずはない。そしてあの、雪子という女性。彼女が自分をここまで運び、看病していたと考えると、つじつまが合う。新人の最初の仕事が、ここの所長の運搬とは、不運だったな、と涼は他人事のように思う。実際他人事だったが、迷惑をかけた張本人の思考とは思えない。こうした性格からか、涼には親しい人間があまりいなかった。
「まあ、一人増えたところで、どうせ変わりはない、か。それよりあのプログラムは……」
涼の思考は研究のことに移った。
「成功したとは思えないが、一応確かめておこう」
 まだふらつく足を床に着け、立ち上がる。目眩のようなものを感じたが、そんなものは日常茶飯事だとドアのほうへ向かう。ドアノブに手をかけると、
「……?」
涼が回すより早く、それは動いた。がちゃり、と音がしてドアが開くと、
「あーーっ!」
そう叫ぶ雪子と鉢合わせた。
 片手に湯気が漂う皿を持った雪子は、
「だめですよまだ寝てないと!そんな体調で、一体何処に行こうとしたんです!」
空いているほうの手で涼の肩をつかむと、ぐいぐいと医務室の中へ押し返す。弱りきった涼は、されるがままに、ベッドへと戻された。
「研究室に行こうとしただけだよ」
涼がぼそっと呟くと、
「無茶言わないでください!今日は研究には行かせません!」
雪子はてきぱきと、ベットに食事用の机をスライドさせた。一般的な病院のベッドと同じ造りだったので、雪子も動作に困ることはなかった。
「とりあえずこれでも食べて、今日はちゃんと寝てください」
 そう言って涼の前に置かれたのは、ホワイトシチューだった。大きめに切られた人参やじゃがいもや玉ねぎが、スープの中から顔をのぞかせている。渡されたスプーンを手に取ると、涼は大人しくシチューを口に運んだ。
 温かいシチューを嚥下して、
「……美味しい」
そう漏らしたことに、涼は気づかなかった。 久しぶりに口にする温かい食事を、涼は夢中で食べた。雪子はそれを見て機嫌を直したのか、ベッド脇の椅子に腰かけ、表情を和らげた。
 あっという間に完食した涼は、
「おかわり」
空になった皿を雪子に突き出した。いつも通りの無表情だったが、声音がほんの少し弾んでいた。
「まだたくさんありますから、遠慮せずに食べてくださいね」
その変化に気付いたのか、雪子は軽い足取りで、二杯目のシチューを注ぎに行った。
「食べ物くれるなんて……良い人じゃないか」
子供のようなことを言って雪子の帰りを待つ。涼はもう、部屋を抜け出そうとは思わなかった。


「兄貴ー生きてるかー」
 半分冗談ではなさそうなことを言って、研究室に部外者がやってきた。
 誰がどう見ても部外者だった。研究員は皆白衣を着ていたが、コンビニのビニール袋を提げて入ってきたその男は、黒い学生服を着ていたからだ。おまけにズボンにはチェーンを何本もぶら下げており、上着のボタンは全て開いていた。外見は完全に不良学生だった。
「流か。実験中じゃなくて良かったね」
コーヒーカップを片手に、涼が応対する。休憩中だったらしく、他の研究員達も飲み物片手に談笑していた。
 涼のことを“兄貴”と呼んだ部外者――流は、
「兄貴はいつ来ても研究ばっかじゃねーか。どうしたんだ、今日はちゃんと休憩して」
ビニール袋を涼に渡しながら問うた。涼はすかさず袋の中身を漁り始める。コンビニスイーツを次々と机に置き、
「どれにしようかなー」
「兄貴ー聞いてんのかー?」
こうなったらもう会話は成り立たない、と流が諦めかけた時だった。
「休憩とらないと雪子が五月蝿いんだよ」
意外にも涼から返答があった。
「雪子って、誰」
流は聞き覚えのない名前に頭をひねる。ここの研究員の名前は兄の代わりに全て覚えているはずだが、その名は記憶になかった。
「新人の研究員。私が倒れると看病してくれる」
「それは有り難いな」
「あとご飯作ってくれる」
「それも有り難い」
「とにかく気が利くから私は楽できて良いよ。研究以外のことに気を使わなくて良くなった」
「それは前からだろ」
 相変わらずの兄の姿に、流はため息を吐いた。
「天才だか何だか知らないが、本当に手のかかる兄貴を持ったよ、俺は」
わざと大きな声で言ったが、涼は聞いていない。そんな兄の姿に、流はもう一度ため息。そして、いつものように帰ろうとして、
「あ、ちょっと待ってくださーい!」
知らない声に呼び止められた。