霜月の風は暖かく

「前」


 霜月の風は、冬の香りがする。
 遥か遠くから香る磯の香りよりも尚深く。全身を目覚めさせるように、奮い立たせるように風は吹く。
 我はそんな風が好きだ。
 今年も、この季節がやって来た。

 * * *

 とある小さな村に、神社が一社建っている。村一帯を見渡せる山の頂。木々に覆われたそこに、社はひっそりと建っていた。
 土地神様が祀られている。昔からそう言い伝えられてきた。
「ねえおかあさん!はやくはやく!」
「このあめ、たべていい?」
 普段は神主や巫女達しかいない静かな場所だが、今日は何故だか賑わっていた。
「やはり子どもは、元気で良いですね」
 この神社の神主は、晴れ着姿の子ども達を眺め、そう口にした。
 小走りで坂を上がってくる子。巫女達に千歳飴をもらって喜んでいる子。下駄が動きにくいと文句を言う子。中には初めて来た神社に泣き出した子もいる。
 七五三の祝いが行われる今日は、神社は村の子ども達の姿でいっぱいになる。
「しかし、何度見ても飽きぬ光景だな」
 神主のものとは違う、女性の声が虚空から響いた。しかしその声に気付いた者はいない。ただ一人、神主を除いては。
大忙しで働く巫女達に子供達の相手を任せ、神主は社の中へ入る。土地神が祀られているという祭壇を素通りし、社の隅の、日当たりの悪い場所へと歩を進めた。
「そんな所に立っていないで、外へ出てきたらどうですか」
「我は表に出られるような身ではない。そも、我をこの社へ縛り付けたのは主の先祖だろうて」
「それは失礼致しました。しかし変ですね。神社の敷地内なら、貴女は自由に動けるはずなのですが」
神主は誰もいない暗がりに向かって話し続ける。
「今日はまた、随分と気が乗らないようですね」
「我のことは放って置け。主に偉そうに言われる筋合いはない」
 神主の前には誰もいない。巫女達は、また始まったとばかりに神主に呆れた視線を送り、子供達の相手を続けた。
「ほれ、また主は気が狂ったと思われておるぞ。奴らからしたら、どうせ我の姿は見えておらぬのだからな」
 神主は困ったように笑うと、誰もいない場所に手を差し出す。
「何をすねているんですか。私のことを哀れに思うなら、たまには姿を見せて下さいよ」
「む……。しかし我は――」
「今日はお目出度い日なんですから、良いでしょう?」
 柔らかな瞳を向けられ、少しはにかんだように、“それ”は神主の手を取ったのだろう。暗がりの中から神主に手を引かれ現れたのは、小さな少女だった。
 平安時代の袴のような、ゆったりした白い衣。長く真っ直ぐな黒髪をかんざしで結わえている。齢は十に届くか届かないかのような外見であったが、醸し出す雰囲気はとても大人びており、また、達観してもいた。
 少女は外の様子を見やり、ため息を一つ。
「……やはり我は、もう奴らには見えぬようだな」
 神社の隅から突然現れた少女に目を向けるものは、神主の他にいなかった。先程と変わらず、社の前は賑わっている。
「貴女の所為ではありませんよ。折角の晴天なのですから、外に行きましょうか」
神主は軽々と少女を抱き上げると、すたすたと御神木の方へ向かった。腕の中で、少女が恥ずかしそうに暴れている。子ども扱いするな、とか、主は生意気だ、とか、大体子どものようなことを騒いでいた。


「落ち着きましたか?」
 御神木を見上げ、神主が問う。
「先程よりは」
むすっとした態度の少女は、御神木の枝に腰掛け、神主の方を見ないで答えた。御神木に登るなんて、何とも罰当たりな少女である。 しかしそれよりも、少女が腰掛ける枝の細さが妙だった。普通は上に乗ったら簡単に折れてしまいそうな枝。少女はさも当然のように、そこに座って足をぶらぶらさせていた。
「こうして見ると、本当に子どものようですね」
「五月蝿い。そう言う主は、大分年を取ったな」
 少女は目の前の景色を見つめ、どうでも良さそうに言った。全く相手にされていないようなので、神主は困り顔である。それでも一応返事はしてくれるので、勝手に言葉を投げかける。
「それじゃあ私がお年寄りみたいじゃないですか。まだ二十代ですよ、私」
「小さい頃の主は、もっと可愛げがあったものを」
「仕方ありませんよ、人間なんですから。まあ、二十年なんて、土地神である貴女には僅かな時間でしょうが」
 土地神、と呼ばれた少女はフンと鼻を鳴らした。そこで初めて、神主を見下ろした。
「主は我を諭すと言うか」
「貴女がお望みならば」
神主は全く動じない。それどころか、土地神をからかって楽しんでいるようだ。傍目には、仲睦まじい親子のようにも見えた。
「それにしても、どうして今日はそこまでシャイだったのですか?」
「しゃ、しゃい、とな?」
「恥ずかしがりや、ってことですよ」
「主は時に、訳の分らないことを言う」
 土地神はいよいよ不機嫌になって、それ以上会話を続けようとしなくなった。
 しばしの沈黙。微かな風が、葉の少ない御神木を通り抜けた。赤い落ち葉が、かさかさと音を立てた。