紡ぎ詩

一.「そして僕は、それを心に焼き付けた」


 見上げると、透き通った空がどこまでも広がっている。
 僕は手にしていたスケッチブックを傍らに置くと、その場に横になった。
 高校生になってまで写生大会かよ、と最初は不満だったが、こうして教室の外に出てみるとやはり気持ちが良い。気分転換ぐらいにはなりそうだ。
 学校からそう離れてはいない河川敷。初夏の川原は鮮やかな緑色で覆われていて、寝転んでみると、少し湿っぽい草の匂いがする。
 僕はとうとう描くことを放棄して、昼寝の体勢に入った。どうせこの辺りで描いている奴なんて、僕ぐらいだ。少しぐらいなら見つからないさ。
 指の間をするりと抜け出した鉛筆は、ゆっくりと土手を転がっていく。そしてそれは、そう時の経たないうちに、僕の元へ戻ってきた。
「おい、成瀬靖都」
そいつは何故か僕の名をフルネームで呼びながら、生い茂る草を容赦なく蹴散らして土手を上がって来る。
「寝るならせめて筆箱にしまっとけ。こんなに汚れて、鉛筆が可哀相だと思わないのか」
「速水、……つっこむところ、そこなの?」
「気にするな、いつものことだろ」
そう言いながらそいつは僕の手に鉛筆を握らせた。
 速水晶という名のこの友人とは、もう6年の付き合いになる。性格は、良く言えば個性的、悪く言えば変だ。まあ、そんな奴だから、今まで仲良くやってこれたんだろうけど。
「ところで速水、もう描き終わった?」
「もちろん。俺の画力ならこんなのあっという間だ」
「何描いたんだ?」
尋ねると、速水は自分のスケッチブックを僕に放った。勝手に見ろ、ということらしい。手の中の鉛筆を今度はちゃんと筆箱にしまってからページをめくる。
 最初のページを占拠していたのは、日差しに照らされた信号機。彼が去年の写生大会で描いた絵だ。お題が無いとは言え、信号機なんて描いたのは流石に速水だけだ。大抵の生徒は風景を描いてくる。そんな中で、速水の作品は異色としか言いようが無かった。力強いタッチで描かれた彼の絵は、一年生の作品にも拘らず、昨年の最優秀作品となった。
全く、お前らしいよ。そう思いながらページをめくると、そこには何故か横断歩道の絵があった。
「今年は横断歩道なのか」
「おう。みんなと同じの描いてもつまんねーし。それに顔見知りの少ないところの方が集中できるしな」
いつの間にか、彼は隣であぐらをかいて、その絵を覗き込んでいた。
「上手いだろ」
「僕にもその画力分けてほしいよ、ホント」
そう言うと、彼は満足そうに二カッと笑った。さて、僕もそろそろ描かないとまずいかな。
「じゃあ、僕もいい加減描いてくる」
「あれ、ここで描かないのかよ」
 立ち上がった僕を、速水は不思議そうに見上げた。くっそー、余裕だな。
「俺、てっきりお前はここで描くんだと思ってた」
「そりゃあ、確かに良い所だけどさあ。僕には難しすぎるよ。画力が追いつかない」
ふーん、とどうでも良さそうな相槌を打つと、速水はある場所を指差した。
「あれならどうよ」
「どうって……」
 促されるままにそちらを見ると、
「ただの階段じゃないか」
土手から川辺に降りるための階段が鎮座していた。コンクリートで出来た、何の変哲も無い階段だ。
「案外面白いと思うけどなー。誰も描かなさそうだし」
「お前……その理由好きだな」
「気にするな、いつものことだろ」
その返答も好きだよな、と言いかけて止めた。どうせ言っても意味はないし、折角題材をくれたのだから、これを活かさない理由も無い。そう自分に言い聞かせて、僕はその階段へと向かった。
 結局、速水の言った通り、それは面白い題材だったことを認めざるを得なかった。
「な、俺の言ったこと信じて良かっただろ」
「ああ……。それにしてもお前、よくこれに気付いたな」
「俺、両目とも視力Aだもん」
 何の変哲も無い階段。だが、その一番下の段に、一つのビー玉が転がっていた。
誰かが落としていったものだろうか。だとしたら、これを落としてくれた誰かに感謝しなきゃいけないな。そう思ってしまったほどに、絵になっていた。
沈み始めた日を吸い込むように光るガラスと、それを抱く灰色のコンクリート。階段の周囲が草で覆われているおかげで、鮮やかな緑が、コンクリートの無機質さを少し和らげてくれている。
ありそうでなかった組み合わせ。それが何だか新鮮で、僕は無我夢中で筆を走らせた。真っ白だったページが、みるみる内に染まっていく。
「上手いじゃん」
「速水ほどじゃないよ」
 完成した作品は、確かに自分でも上手いと思った。自画自賛だと思われそうだから、口には出さないけれど。


 終了時間ギリギリに提出したその絵は、学年内の佳作に選ばれた。もちろん最優秀作品は速水の絵だ。流石に2年連続受賞なだけあって、美術部員が相当悔しがっていた。美術部への勧誘も山ほどあったらしいが、
「俺はサッカー一筋だから」
と、全部断ったらしい。サッカーなんてちゃんとやったことないくせに、よく言うよ。
「成瀬君、美術部入らない?」
 美術部員に取り囲まれた速水を傍観していると、ある女子部員に声をかけられた。
「え、僕?」
「ええ。佳作だったけど、私はすごく良い絵だと思ったわ。美術部で頑張れば、相当良い線行けるって!」
その題材を提供したのが速水だって言ったら、どんな顔するかな。言わないけど。
「……えっと、悪いんだけど僕はそんなに上手くないよ。それに、生徒会が忙しいし」
 そう無難に断ると、その女子部員は、何だ残念、と全然残念じゃなさそうに言って、
「でも、あの絵が良いって思ったのは本当だよ」
速水を取り巻く集団の中に戻っていく。
 その言葉だけは本当だと、残された僕は勝手に受け取っておく。褒められるなんて、そうそうないことだし。たとえそれが、速水のおかげだとしても。
「それにしても………あの子誰だっけ」
たとえそれが、名前も知らない子に言われたことだとしても。
「おーい、成瀬ー!生徒会行こうぜー」
「ああ。今行くー」
 そして僕は、ようやく解放されたらしいその友人に密かに感謝しつつ、教室を後にした。