学校帰りに本屋に寄ることにした。
理由は何てことはない、学校側から指定された参考書を買うためだ。どうせ俺も買わなきゃならんし、と速水もついてきた。
夕方とはいえ日差しの強い夏の道は、熱の加減というものを知らない。下から上がってくる熱気を一身に受けながら、冷房のある本屋への歩みを進めた。
「そういえば、最近真樹ちゃんはどうよ」
無言でいると暑さを気にしてしまうのか、速水が突然、僕の妹の話題を投げかけてきた。
「あー、何か最近、大会が近いから忙しいらしいよ」
「部活?何やってるんだっけ?」
「吹奏楽」
そんなことを話しているうちに、本屋まではあと50メートルほどになった。すると、見覚えのある人影が、反対側から近づいてきた。
その人影は、長い黒髪をツインテールにして、この町の中学の女子用制服を着ていた。スタスタと足早に歩くその姿には、一切迷いというものが感じられない。
「おっ。噂をすればなんとらや、だな」
速水の言うとおり、僕達の方へ歩いてくる人物は、紛れもなく妹の真樹だった。
「あれ、晶君久しぶりだね」
「真樹、僕には何もないのか」
「何だ、いたんだお兄ちゃん」
そんなあんまりな扱いをされるのはいつものことだが、
「どうしたんだ、部活は」
こんな明るい時間に、町中で真樹に会うのは珍しいことである。
「今日は職員会議だから部活はないの。昨日夕飯の時に言わなかった?」
そういえばそうだった気がする。……だとしてもだ。
「………それ、持って帰ってきたのか?」
「うん。部活がない分は、自主練習しないと」
「うわー、真樹ちゃん力持ちだなー」
真樹が肩から担いでいるのは、振り回せば大の男でも気絶させられるのではないかと思うほどの、大きな黒い袋である。
「チューバやってるんだっけ」
「そうだよ。晶君よく知ってたね」
そう。袋の中身は吹奏楽の金管楽器の中では最大の金属の塊だ。そんなものを平気な顔して肩から提げているとは、我が妹ながら恐ろしさを覚える。これさえなければ見た目は充分可愛いと思うのだが。
「それ、家で練習するつもりじゃないだろうな」
「まさか。近所の公園で練習するよ」
「なら良いけど」
「成瀬厳しいなー。良いんじゃね、練習ぐらい家の中でも」
「お前の家は一戸建てだからそんなこと言えるんだよ。うちはマンションだから、音出すだけでも近所迷惑になるんだ」
その辺は真樹もちゃんと理解している。公園なら、少なくともマンションよりは苦情も少ないだろう。
だが、女子の、しかも中学生が遅い時間に一人で外にいるのはあまり安全ではない。
「じゃあ、僕も一緒に行くよ」
「別にいらないよー、そんなに遅くまでやらないし」
「でも最近色々物騒じゃないか。不審者とか出るらしいし」
「いらないって言ってるでしょ。それに私、練習してるところ人に見られるの嫌いなの」
だけど、と反論しようとしたところを、速水に止められた。
「そのくらいにしとけよ。全く、お前は過保護すぎるんだよ。それに成瀬、参考書はどうすんだよ」
「さすが晶君、話が分かるー」
うるさいなー、とだけ言っておく。末っ子同士のこの二人は、時折変なところで意気投合することがある。仕方ないので真樹とはその場で別れ、速水と本屋へ入った。
店内は冷房がよく効いており、頭も少し冷えたような気がした。
「ただいまー」
家に帰ると、母さんが電話をしている最中だった。
「ええ、そうなの。それで靖都ったら」
相手は恐らく速水の母だろう。流石に小学生の頃からの付き合いともなると、家族ぐるみで仲良くなってしまう。真樹なんか偶に、晶君がお兄ちゃんなら良かったのに、とかまんざら冗談でもなさそうなことを言ってくる。
「弁当箱、ここに置いとくよー」
「分かったー。ああ、ごめんね、靖都が帰ってきたのよ。うん。まだ大丈夫。夕飯、うちは遅いから」
まだ話すつもりか。どうしてうちの親はこんなに長電話が好きなのか、昔から疑問に思う。電話に出たときは一オクターブトーン上がるし。
居間をあとにして、僕は自分の部屋へと向かった。さっさと宿題を済ませてしまおう。今日はまだ、生徒会の議事録をパソコンに打ち込む作業が残っている。
時計を見ると、いつの間にか夜の8時になっていた。いくら夕飯が遅いとはいえ、こんな時間まで遅くなることはあまりない。何かあったのだろうか。そう思って居間に行くと、
「靖都、真樹がどこ行ったのか知らない?まだ帰ってこないのよ……」
あいつ、まだ練習してるのか。いくらなんでも熱心すぎるだろ、これは。
「多分公園だと思う。チューバの練習するって言ってたし。ちょっと迎え行ってくる」
「そう。頼んだわよ」
外はもうすっかり暗くなっていた。歩いてさほどかからない公園へ向かったが、そこに真樹の姿は無かった。電灯に照らされ、眩しく光るその楽器だけが剥き出しのまま置かれている。
……おかしい。あいつなら、絶対にこんな事はしない。僕が少し触ろうとしただけで、傷が付いたらどうするの、と言ってケースにしまってしまうのだから。だとしたら、真樹以外の奴だ。まさか、最近目撃されているらしい不審者の仕業か?考えたくもないが、最悪の事態として考慮しておかなければなるまい。
そういえば、チューバが入っていたあの黒い袋が見当たらない。あの大きさから言って風で飛ばされるなんてことはないだろう。じゃあどうして……。
「お兄ちゃん……?」
声のしたほうを振り向くと、
「真樹!」
黒い袋を大事そうに抱えて真樹が立っていた。その表情は暗くてよく分からないが、恐らく、あまり明るいものではないだろう。
「何が、あったんだ」
慎重にそう尋ねると、真樹はゆっくりとこちらへ歩いてきて、
「ちょっと待って」
僕の横を通り過ぎて楽器をしまい始めた。やはり真樹はそういう奴だ。
家までの短い道のりを、ゆっくり並んで歩いた。
真樹が言うには、公園を通りがかった女子高生に、黒い袋を盗られたらしい。その高校生は真樹の一つ上の先輩で、中学時代から真樹のことをよく思っていなかった。真樹は真樹で、付き合ってられないという風にそいつのことを極力無視してきたようで、それもそいつにとっては気に食わなかったようだ。そして今日、たまたま見かけた真樹に報復しようと思ったらしく、学校の備品であるその袋を盗って、逃げた。
「私、取り返さなきゃって思って、必死で追いかけたの。で、取り押さえたところで喧嘩になって……」
「そうか。よく頑張ったな」
肩より少し下の位置にある頭を、ポンと叩くと、真樹は堪え切れなくなったのか肩を震わせた。
もうその先は言わなくても分かる。制服の汚れや髪の乱れから、それがどれほどのものだったのかは見当が付く。暗くて分からないが、怪我もしているだろう。
声を抑えて涙を流すその姿が、何だか少し遠くに感じた。
「ほら、これ飲んどけ」
「何これ」
「ビタミン剤。お前口内炎出来てるだろ」
そう言うと、真樹は顔を赤くしてビタミン剤の瓶をもぎ取った。ちゃんと一粒飲んで瓶を返すところが真樹らしい。真樹の部屋に長居をするわけにもいかないので、単刀直入に聞く。
「何で言わなかった。いじめられてたこと」
少なくとも、口内炎が出来るほどのストレスが溜まっていたことは分かった。想像に過ぎないが、その先輩とやらが高校に入ってからも、嫌がらせはされたのだろう。そいつの妹が真樹の一つ下にいるらしいから、恐らく今日のことも偶然ではない。最初から狙われていたはずだ。
「……お兄ちゃんに余計な心配させたくなかっただけだよ。あれは私の問題だし」
「馬鹿、何でお前が気を使わないといけないんだよ。偶には頼ってくれないと、僕の面目が立たないだろ」
「分かった。今度からはそうするよ。………で、いつまでいるつもり?」
真樹に半ば追い出されるように、部屋から出る。ああ、我ながら情けない。ただ、
「……ありがとね」
ドアの向こうから聞こえてきたその言葉だけで僕には充分だった。さて、早く生徒会の仕事を終わらせて寝よう。
それにしても、僕はなんて簡単な奴なんだろう。少し軽くなった心に、そう尋ねずにはいられなかった。