紡ぎ詩

七.「そして僕は、過ぎ行く時を心に刻む」


 木々を揺らす風を心地よく感じる頃。
 頭上には青地に白い水玉模様。俗に言う、いわし雲というやつが、ぷかぷかと気持ち良さそうに浮かんでいる。その白さは洗い立てのシャツのようで……。
「――あ」
 帰りにクリーニングに出したお父さんのシャツを受け取ってきてね。そう母さんからメールが来たのが昼休みのこと。今日の放課後は生徒会がないから大丈夫、と僕は確かに依頼を引き受けた。
 しかし何ということだろう。たった今、僕は朝と全く同じ量の荷物を手に、商店街を通り抜けてきてしまった。
 ……すっかり忘れていた。たった数時間前の約束も覚えていないなんて。自分の記憶力のなさが露呈されたようで、少し悲しい。
「仕方ないなー……」
 このまま帰宅しては後味が悪いので、今来た道を引き返すことにした。
 秋とはいえ、この時間帯の日差しはまだまだ健在だ。シャツの袖をまくり、ご近所の主婦の皆さんや学生でごった返す細い道を進む。
 人ごみも落ち着いてきた商店街の端。そこに目的のクリーニング屋さんがある。
「こんにちは」
「あら靖都君、久しぶりねー」
 出迎えてくれた初老の女性と僕の両親は、僕がまだ二足歩行も出来なかった頃からの付き合いらしい。時々僕が覚えてもいないようなことを話題に出してくるので、正直言うと少し苦手だ。
「お父さんのシャツ受け取りに来たの?偉いわねー」
「母さんに頼まれたので」
「えーっと……あ、あったあった。はい、これね」
 クリーニング屋のおばさんは、膨大な数の白いシャツの中から父のシャツを取り出すと、
「あら、また身長伸びたんじゃない?」
僕に手渡しながらそんなことを言った。
「最近はもうそんなに伸びなくなりましたよ」
「いやー、まだ分からないわよ?これからが本当の成長期かもしれないじゃない」
 流石にそれはないだろう。もう、高校二年生も残り数か月、という年齢だ。中学後半から順調に伸びた僕の背は、残念ながら先日の身体測定ではあまり変化が見られなくなっていた。しかし正直言うと、あと5センチくらい欲しい。それだけあれば速水に勝てるし。
「じゃあ、お母さんとお父さんによろしくね。今度ケーキ買いに行くわ。靖都君のお母さんのケーキ、私大好きなのよー」
「ありがとうございます。伝えておきますね」
 一方的に主導権を握られる空間から脱出し、今度こそ家に向かう。何だかすごく疲れた。


 そして僕は、それを見た。
 秋風の爽やかさとは正反対の、ねっとりと澱んだ空気。公園に集まっている、色とりどりのランドセル。それを背負った少年少女に取り囲まれて震える肩。
 明らかに穏やかな雰囲気ではない。クリーニング屋のおばさんに感じた「一方的」とは意味合いがまるで違う。
 弱い者いじめ……そんな言葉で片付けられるものなのだろうか。
「そのこと自体にも、あの子たちは気づいてないんだろうな……」
 そういえば、あの時の現場も確かこの公園だった。夏に真樹の楽器ケースが盗まれた時だ。
 見ず知らずの小学生たち。真樹の時とは勝手が違う。僕が出て行っても、どうせ何も変わらない。
「……でも」
 何もしないで諦めるのは、もっと性質が悪い。
 少なくとも、あの人ならそう言うはずだ。それにあの時、何もできなかったことを後悔したじゃないか。
 意を決して足を踏み出そうとした瞬間、
「成瀬君じゃないか。こんなところで会うなんて、奇遇だな」
あの人はいつも、絶好のタイミングで現れる。
「か、会長!」
 右手に黒い鞄と制服のブレザー、左手に八百屋のロゴが入ったビニール袋を提げた会長は、いつもより白が多い。尤も、夏の間は白い半袖シャツとスカートだったので、白成分の多い会長の姿は見慣れているはずだが。本来なら特筆する必要のないことに考えが行っているのは、きっと突然の遭遇に僕が戸惑っているからであって。
 僕が取り乱していることを気にも留めず、会長は僕がさっきまで見ていた光景に目をやる。
「全く……日本の教育はこれだから駄目なんだ」
呆れたようにため息をつく。
「ああいう連中には、正攻法では通用しないぞ」
「それは……分かっているつもりです」
 先生に注意された生徒のように、無意識の内にうなだれてしまう。
「君は優しいな。……ちょっとこれ持っててくれないか」
「え?」
 会長は僕に鞄とブレザーを預けると、いつも通りの凛とした足取りで、小学生の集団に近づいていく。うさん臭そうな視線を向けられても、会長は顔色一つ変えない。そして目線を彼らと合わせると、突然提げていたビニール袋に手を突っ込んだ。予想外の行動に、僕も含めてその場の全員がビクッとする。
 勢いよく袋から出した手には、レモンが一つ。
「君たち、よく聞くんだぞ」
 後ろ姿しか見えないので、会長の表情はよくわからない。しかし恐らく、
「これはね、爆弾なんだ」
そう言った瞬間彼女は、満面の笑みを浮かべていたに違いない。
「ば、ばくだん……?」
「そう、爆弾。これが爆発したら、君たちは木端微塵だぞ」
 予想がつかない会長の行動と発言に、小学生たちはぽかんと口を開けている。やがて興味をなくしたのか、
「おい、行こうぜ」
「このおねえちゃん何考えてるかわからなくてこわい」
「またあしたなー」
散々勝手なことを言って帰っていった。
 先ほどまで輪の中心にいた子は、ほっとしたのかその場にへたりこんでいる。赤いランドセルを背負っているので、きっと女の子だろう。
 僕はそこでようやく、公園に足を踏み入れた。
 会長は今にも泣きだしそうな女の子の頭をなでて、もう大丈夫だぞ、と声をかけていた。
 また、何もできなかった。
 身長は伸びても、中身は全く成長していない。
「成瀬君、君のことだからきっと責任を感じているのだろうが……」
 会長は立ち上がると、僕を見上げて言った。
「君がいなかったら、私はこの状況に気付かなかった。だからこれは、君の手柄だよ」
 本当に、この人には敵わないな。
 会長に鞄とブレザーを返しながら、ため息混じりの笑みがこぼれた。


 女の子が帰ったのを見届けて、僕と会長は公園をあとにする。家の方向が一緒なので、途中まで一緒に帰ることになった。
「そういえば会長、さっきの爆弾って……」
「ん?ああ、あれか。もちろん冗談だよ。レモンが爆発するわけないだろう」
 素直に冗談だと認められたので、何だか拍子抜けした。あの時少しでも爆発する可能性を考えてしまった僕は馬鹿なのだろう。
「よくそんなことを思いつきましたね……」
「何だ、君は梶井基次郎の『檸檬』を知らないのか」
 文学作品だろうか。残念ながら読んだことはない。
「初めて聞きました」
「まあ、私もこの前、現代文の授業でやったから知っていただけなんだが。ちょうどそこの八百屋でレモンが安かったから、買ってみたというわけだ」
「会長らしいですね」
「不条理だが、これがなかなか面白い作品だった。成瀬君も、今度読んでみるといい」
 文学を介したやり取り。初めて話した時も、確か本がきっかけだった。
「……あの、会長」
「どうした?」
「引退してからも、生徒会室に遊びに来てくださいね」
「何だ急に。まだ引退までひと月あるだろう」
「そうですね……。すみません」
「謝る必要はない」
 どうしてそんなことを言ったのか、自分でも分からない。きっと秋風に、時の経過を感じてしまっただけだ。
「……そうだ、よかったら一つあげるよ。つい買いすぎてしまったんだ」
 差し出されたのは黄色いレモン。柑橘類特有のさわやかな香りに、気分が晴れていく。
「まさか爆弾じゃないですよね」
「さあ、どうだろう」
 会長は悪戯っぽく言った。真面目そうに見えて、実は意外と茶目っ気がある。会長はそんな人だ。
「じゃあ、私はこっちだから」
「あ、はい。色々ありがとうございました。レモン、母に頼んでケーキにしてもらいます」
「それは良いな。差し入れてもらえると更に嬉しい」
「分かりました。今度生徒会室に持っていきます」
「楽しみにしているよ。では、また明日」
「はい!また明日」
 T字路を僕は右に、会長は左に曲がる。
 ――また明日、か。そう言えるのはいつまでだろう。
 見上げると、いわしはいつの間にか姿を消していて。
 色付きかけた空にうっすらと浮かぶ月は、レモンのような紡錘型。
 僕の手の中には、黄色い月。
 小さいが、ずっしりとした重みに、何かを託されたような気がした。