Ryo〜call you, again〜

11



 第一研究室には、焦りを隠しきれない研究者が一人。涼はただ一心に、プログラムを組み立てていた。
「あと二日……」
それでもかろうじて、時の流れは感じているようだった。父が最後通牒を突きつけてから、三日が過ぎていた。
 研究所で動けるものは、今や涼だけとなった。他の研究員は皆、感染症患者である。
「分っていたつもりだった」
ちら、と雪子の姿が脳裏をよぎる。
「……ここには最初から、私しかいなかったんだ」
涼は一瞬だけ、キーを押すのをためらった。
「彼らのほうが、私なんかよりよっぽど人間らしいのに」
指で眼鏡の位置を直すと、涼はまたキーボードを叩き始めた。
 どんどん、と戸を叩く音が聞こえる。遠くからだ。声のようなものも聞こえてくる。
「……き……、――兄貴!」
「流か」
声の主はすぐに判別できたようだが、涼は席を立とうとはしなかった。
「君は父に囚われなくて良いんだ。そんなのは、私だけで――」
 音と声は、永遠に止まないかのように思われた。
「兄貴!いるんだろ!話が――ぐあっ!」
苦しげな声と何かが倒れる物音。先程まで続いていた、扉を叩く音が消えた。
「――っ、流!」
涼は流の元へ、研究所の入り口へと駆ける。そう長くはない距離だったが、着いた頃には肩で息をしていた。
 息を切らして戸を開けると、
「――!」
「……早かったじゃ、ねえか…………」
首を右手で押さえた流が、壁にもたれかかって座っていた。その息は、全力疾走してきた涼以上に荒かった。
「流!」
「……ちょっと、油断しちまった……。そいつ、に――」
 震える左手の指で示した方向には、見知らぬ男が一人、倒れていた。手に包丁を持っているが、もう動き出す気配はない。手の平には、
『1674』
情報{データ}特有の製造番号が記されていた。
「ウイルスにやられて、人格が暴走したのか」
「……やっぱり、原因を……知っていたんだな……。――ぐっ!」
「流……?」
 首を押さえる流の手から、少し力が抜けた。溢れ出す朱。咄嗟に駆け寄った涼の白衣が、みるみるうちに染まっていく。
「流!もう喋るな!」
涼は歯で白衣の袖を引きちぎると、流の首にあてがった。流を廊下に横たえ、
「少しの間、我慢してくれ」
流が瞬きで同意したのを確認し、涼は医務室へと走った。
 医務室の扉を乱暴に開け、
「雪子!」
緊迫した面持ちで入ってきた涼に、雪子は驚いた。まだ頭はぼうっとしていたが、
「医療系データベースにアクセス。ファイル番号四〇六。――出来るな?」
涼の言葉で、完全に目が覚めた。
「はい」
返事をすると、雪子は素早い動作で医務室の棚を漁り、いくつかの道具を持ち出した。そのまま流のいる場所へと向かう。
 涼はその様子を、どこか冷めた表情で眺めていた。まるで熟練の医師のように応急処置を行う雪子の姿に、
「本当は、君に命令なんてしたくなかった……」
思わず呟いた言葉は、雪子の耳には届いていなかった。


 「とりあえず処置はしましたが、病院に連れて行かないと無理ですね……。ここでは設備が不十分で……」
額の汗を拭って、雪子が涼に向き直った。流は麻酔で眠らされている。
「そうだね。救急車、呼んできてくれるかい?」
「分りました」
 先程までとはうって変わって、ふらふらとした足取りで、雪子は電話をかけに行った。やはり感染症はまだ完治していない。
「何故雪子にやらせたのかな、私は……。他の研究員にも出来ることなのに」
一方の涼は、外に倒れている男の元へ向かう。流の血が付いた包丁を忌々しげに一瞥し、犯人の男が息をしていないことを確認する。流が抵抗した跡がいくつか見てとれるが、致命傷となるほどの外傷はなかった。
「死因は感染症とみて間違いなさそうだが……やはり、人格構成プログラムが破壊されている。ウイルスの所為、なのか……」
男の亡骸を置き去りにし、涼は研究室へと戻る。視界に入った傷ついた弟の姿に、残された時間の短さを痛感しながら。