第一研究室には、焦りを隠しきれない研究者が一人。涼はただ一心に、プログラムを組み立てていた。
「あと二日……」
それでもかろうじて、時の流れは感じているようだった。父が最後通牒を突きつけてから、三日が過ぎていた。
研究所で動けるものは、今や涼だけとなった。他の研究員は皆、感染症患者である。
「分っていたつもりだった」
ちら、と雪子の姿が脳裏をよぎる。
「……ここには最初から、私しかいなかったんだ」
涼は一瞬だけ、キーを押すのをためらった。
「彼らのほうが、私なんかよりよっぽど人間らしいのに」
指で眼鏡の位置を直すと、涼はまたキーボードを叩き始めた。
どんどん、と戸を叩く音が聞こえる。遠くからだ。声のようなものも聞こえてくる。
「……き……、――兄貴!」
「流か」
声の主はすぐに判別できたようだが、涼は席を立とうとはしなかった。
「君は父に囚われなくて良いんだ。そんなのは、私だけで――」
音と声は、永遠に止まないかのように思われた。
「兄貴!いるんだろ!話が――ぐあっ!」
苦しげな声と何かが倒れる物音。先程まで続いていた、扉を叩く音が消えた。
「――っ、流!」
涼は流の元へ、研究所の入り口へと駆ける。そう長くはない距離だったが、着いた頃には肩で息をしていた。
息を切らして戸を開けると、
「――!」
「……早かったじゃ、ねえか…………」
首を右手で押さえた流が、壁にもたれかかって座っていた。その息は、全力疾走してきた涼以上に荒かった。
「流!」
「……ちょっと、油断しちまった……。そいつ、に――」
震える左手の指で示した方向には、見知らぬ男が一人、倒れていた。手に包丁を持っているが、もう動き出す気配はない。手の平には、
『1674』
情報{データ}特有の製造番号が記されていた。
「ウイルスにやられて、人格が暴走したのか」
「……やっぱり、原因を……知っていたんだな……。――ぐっ!」
「流……?」
首を押さえる流の手から、少し力が抜けた。溢れ出す朱。咄嗟に駆け寄った涼の白衣が、みるみるうちに染まっていく。
「流!もう喋るな!」
涼は歯で白衣の袖を引きちぎると、流の首にあてがった。流を廊下に横たえ、
「少しの間、我慢してくれ」
流が瞬きで同意したのを確認し、涼は医務室へと走った。
医務室の扉を乱暴に開け、
「雪子!」
緊迫した面持ちで入ってきた涼に、雪子は驚いた。まだ頭はぼうっとしていたが、
「医療系データベースにアクセス。ファイル番号四〇六。――出来るな?」
涼の言葉で、完全に目が覚めた。
「はい」
返事をすると、雪子は素早い動作で医務室の棚を漁り、いくつかの道具を持ち出した。そのまま流のいる場所へと向かう。
涼はその様子を、どこか冷めた表情で眺めていた。まるで熟練の医師のように応急処置を行う雪子の姿に、
「本当は、君に命令なんてしたくなかった……」
思わず呟いた言葉は、雪子の耳には届いていなかった。
「とりあえず処置はしましたが、病院に連れて行かないと無理ですね……。ここでは設備が不十分で……」
額の汗を拭って、雪子が涼に向き直った。流は麻酔で眠らされている。
「そうだね。救急車、呼んできてくれるかい?」
「分りました」
先程までとはうって変わって、ふらふらとした足取りで、雪子は電話をかけに行った。やはり感染症はまだ完治していない。
「何故雪子にやらせたのかな、私は……。他の研究員にも出来ることなのに」
一方の涼は、外に倒れている男の元へ向かう。流の血が付いた包丁を忌々しげに一瞥し、犯人の男が息をしていないことを確認する。流が抵抗した跡がいくつか見てとれるが、致命傷となるほどの外傷はなかった。
「死因は感染症とみて間違いなさそうだが……やはり、人格構成プログラムが破壊されている。ウイルスの所為、なのか……」
男の亡骸を置き去りにし、涼は研究室へと戻る。視界に入った傷ついた弟の姿に、残された時間の短さを痛感しながら。