Ryo〜call you, again〜

13



 雪子の容体が気になったが、涼は研究に打ち込んだ。その隣で、雪子は情報{データ}をモニター内に存在させる方法を考えていた。
「……涼さん、一つ試してほしいのですが、良いですか?」
期限はあと一日。手段を選ぶ余裕はない。それは二人にも充分すぎるほどに分かっていた。
「私を使って、情報をモニター内に定着させてください」
だからこそ涼は、その提案を拒んだ。
「駄目だ。そんなことをしたら君は死ぬかもしれないのに――」
「やる前から決め付けないで下さい。それに、このままこうしていても、死ぬことには変わりはありません」
 雪子は自分の腹部に手をあてて言う。
「私とこの子が生き残る道は、もうこれしかないと思うんです」
「…………そこに、いるんだね。もう一人」
涼の問いを、雪子は微笑んで肯定する。
「私のプログラムを組み直して、モニター内に限定された空間を創って下さい。この子はまだとても小さいけど、私の中でなら、生きられるはずだから」
 優しく腹部をさする雪子の姿は、凛とした母性に満ちていた。それが眩しくて、涼は何も言えなかった。
「私、最初は情報だってばれないようにすることに必死でした。まだ処分されたくはなかったし、でも何より、そのことで涼さんを苦しめたくなかった」
 時の流れは止まらない。こうしている間にも、タイムリミットは刻々と迫っている。その無常さ故か、それとも性なのか、研究者の思考は無意識にプログラムを組み始める。雪子が提示した、その方法で。自分の感情は、別のところにあるにもかかわらず。
「涼さんは、私が情報だと分かっていて、それでも愛してくれました。だから私は、幸せでしたよ。涼さんと出会えて、本当に良かった」
「……本当に、それしか方法がないのか」
目の前の最も確実な案にさえ、涼は感情で抗おうとした。恐らく涼も一度は考えたに違いない。誰かを犠牲にして、実験をすることを。しかしその方法だけは何としても避けたかったのだろう、他に案がないか懸命に考えた。考えようとした。
「君を犠牲にするようなことだけは――」
「涼さん」
 背後から、雪子が涼をふわりと包んだ。
「私は犠牲になろうだなんて思っていませんよ。私は、涼さんを救いたいだけなんです」
「救う……?」
「もしワクチンの開発が間に合えば、私は助かるかもしれません。でも涼さんは、情報が完成するまでずっとあの人に囚われ続けるんですよ。私にはそれが、耐えられないんです」
雪子は涼の髪に、顔をうずめる。涼はモニターを見つめたまま、
「私は君がいてくれれば、それで良い」
今まで自分でも気づかなかった本心を吐露した。自分の口からこぼれた言葉に、涼は戸惑いを隠せない。それを感じ取ったのか、雪子はいたずらっぽく笑った。
「言ったじゃないですか。私は犠牲にはなりません。この子と一緒に、あなたの傍で生き続けるんですから」
 雪子は涼から離れ、その隣に立った。
「私はいつでも、あなたと一緒にいますよ」
その固い意思に、ついに涼は折れた。
「――絶対に成功させてみせる」
「もちろんです。信じていますよ、涼さん」
 一度限りの、命がけの実験が始まった。


 雪子に特殊な装置を取り付けて、プログラムを解析する。涼は慎重に、だが迅速に組成を組み直していく。雪子は人形のように、話さず、動かない。心を痛めぬよう、涼は作業に集中した。
「――これか」
ほどなくして、自分が組んだ覚えのない情報{データ}を見つけた。まだほんの一部だったが、新しい命が生まれていた。
 三時間ほどでプログラムは完成した。
「大丈夫だ。これなら、成功する」
起動させることに、迷いはなかった。
 眩しい光に包まれる室内。意識を失わないように、涼は目を覆った。
光が収まると、そこに雪子の姿はなかった。涼は急いでモニターを確認する。そこに映されたのは光の球体と、
『もう一度、呼んでくれますか?』
無機質な文字の羅列。それを発した主を察し、涼は大切に、その名を呼んだ。
「――雪子」
『……完成です!』
 光の球体は弾け、モニターは情報の基本設定画面に切り替わった。それと同時に、近くで物音がした。
「――!」
 涼が振り向くと、そこには幼い少女が倒れていた。
「失敗、したのか……?」
しかしモニターには、設定画面が現れたままだった。
「人間と情報を掛け合わせたから、人間の部分が分離したのか」
根拠はないが、涼はそう結論付けた。
 少女に自分の白衣を羽織らせ、
「君はここにいてはいけない。早く研究所から出るんだ」
優しく背中を押した。少女は頷いて、外へと駆け出した。
「製造番号はなかったが、ある程度成長した姿で生まれたということは、あの子も情報なんだろうね」
 一人きりになった室内。どこか寂しさを感じながら、涼は完成した情報の設定画面にキーを走らせようとする。
「そうだ、雪子。この子の名前は何にしようか」
本当は直接尋ねるはずだったその言葉を、モニターに投げかける。返答は、思っていたよりも早かった。
『桃太郎』
「桃太郎、は流石に可哀相だと思うけど……でもまあ、良い名前だね」
 涼はかつて父から聞いた、間違った昔話を思い出す。雪子に――情報に組み込んだ、忘れられない昔話を。
「私が君の意識に組み込んだあの話、実は間違っているんだよ」
『間違っている?』
「私が子供のころに父から聞いた話だ。私の父はそのまた父から聞いたらしい。どこで間違ってしまったのか、今となってはもう分からないけどね」
研究者は独り言のように語り出す。姿は見えない彼女が聞いていてくれることを信じて。
「おじいさんとおばあさんが桃太郎に持たせたのは、本当はキビ団子という食べ物なんだよ。私が間違えるから、子供のころ同年代の子に散々笑われた。それで父を問いただしたよ。どうして間違ったものを教えたのか、ってね。そしたらこう返ってきた。水無月家だけの共通事項――絆のようなものだ、って」
思わず笑みがこぼれる。自嘲のように、懐古のように、祝福のように。
「全く無意味な共通事項だ。そんなことを知っていても、何の得にもならないのに」
『でも涼さんは、私にそのお話を与えてくれました』
「……そうだね。あの人に抗いたくて、自分の作った情報には密かにこの昔話を組み込んでいた」
『涼さんは思い出してほしかったんじゃないですか?お父さんに、楽しかったころの思い出を』
「思い出なんて……」
『少なくとも私は、嬉しかったですよ。涼さんと、同じお話が共有できて』
「…………」
『だからやっぱり、この子の名前は桃太郎です。私たちを繋げてくれた、大切な名前です』
 もう空気は振動しない、モニター越しの文字。それでも涼には、雪子と会話ができるということ自体が嬉しかった。気恥ずかしいのでそれを言葉にはしなかったが。
「名前は桃太郎に設定しておくよ。……ところでさっきの子は、どんな名前だと思う?」
『涼子』
「涼子――か。いつか私があの子と再会したら、その名前をプレゼントするよ。折角君がくれたものだからね」
 明るく振舞う研究者の頬を、一筋の涙が伝った。
『涼さん、ようやく泣けましたね』
すかさず画面に表示された文字に、涼は驚いて自分の目尻を拭う。いつか感じた温かなその感覚に、
「そうだね」
涼は瞳に涙を浮かべて、綺麗に微笑んだ。