Ryo〜call you, again〜



 風は冷たく髪を撫でる。
 暗闇に白衣を翻して、涼は一軒の家へ入った。荷物は小さな鞄一つだけ。まるで往診に行く医者のようだった。
 しかし異様なのは、家の明かりがすべて消えていることだった。
 時刻は深夜三時。普通なら、眠りに就いている時間だ。
 そんな家の電子鍵をいとも簡単に開け、足音を忍ばせ廊下を歩く涼は、どこをどう見ても不審者だ。明らかに家主に歓迎されていない。
 やがて涼は、寝室の前で足を止めた。静かに扉を開けると、中年の夫婦が熟睡しているのが見えた。
 涼は鞄の中から注射器を二本取り出すと、夫婦の腕をまくる。
『18405』
『18440』
夫婦の腕には焼印のように、番号が記されていた。涼はそれを確かめると、
「…………せめて安らかに」
そう言って、二人の腕に一本ずつ、注射針を立てた。
 薬品らしき液体が完全に夫婦の体内に入ると、
「ぐっ…………」
夫婦はもがき始めた。動きはそう時間の経たない内に痙攣に変わる。ものの五分程度で、夫婦は一組の屍と化した。
 夫婦の見開いた目をそっと閉じ、涼は部屋を去った。
 その後同じようなことを、涼は三回ほど行った。九人の命が、同じように途絶えた。
 事の顛末を見守っていたのは、天上の月と星だけ。自分達を見上げもしない研究者を、彼らは律儀に照らしてやった。
 涼が研究所に戻ったのは、空も白み始める頃だった。
「こんな時間まで、どこに行っていたんですか」
「雪子……!どうして――」
 誰にも会わないだろうと思っていた涼は、驚きを隠せなかった。ドアを開けると、仁王立ちした雪子が立っていたからだ。
「私の質問が先です!一人で出歩いて、道路で倒れたらどうするんですか!下手したら車にひかれますよ!」
雪子は怒っていた。しかしそれは、散々心配した先にある、安堵を含んだ怒りだった。
「全く涼さんはいつもいつも――って、涼さん!」
気が緩んだのか、涼の意識はふっと途絶えた。 床に崩れ落ちた涼に驚いたのもつかの間、雪子は慣れた動作で涼を抱え上げた。
「……いつか私にも、同じことをしてくれますか、涼さん?」
両腕に抱えた涼に話しかけたが、返事はない。 俗に言う、お姫様抱っこ、というやつを軽々とやってのけた雪子は、自分の発言を思い出して、頬を赤らめた。
「聞かれなくて良かった……」


「またか…………」
 見慣れた白い部屋で、涼は目を覚ました。視界がぼやけている。どうせ雪子が眼鏡を持っているのだろうと周囲を見渡すが、人の姿は無い。
「どうもあの仕事には慣れないな……」
一人きりの室内で、受け取る相手のない言葉が、一方的に紡ぎ出される。
「失敗作を処分しろ、と言われてもね……。いつまで続ければ良いんだ、こんなこと――」
「……その話、私に聞かせてもらえますか」
雪子の声だった。ぼんやりと、涼の目に人影が映る。
「どこから、聞いていた」
詰問するかのような声に、雪子はびくりと肩をすくませる。初めて聞く声音だった。
「失敗作を処分、ってところからです」
「……そうか」
 涼は何かを考えるように目を閉じ、長く息を吐き出した。
「これを話せば、君を巻き込むことになる。……それでも良いかい?」
「構いません」
迷いのある涼とは対照的に、雪子は即答した。そこに不安はない。あるのは強い意志と、信頼だった。
「話してくれたら、眼鏡は返しますね」
明るい口調で、わざと場違いな発言をする雪子。そこに、涼はかすかな胸の高鳴りを覚えた。
 初めて経験する鼓動への困惑を隠し、涼は語る。
 自分に課せられた、あまりにも重い責務を。