Ryo〜call you, again〜



 桜の蕾を待ちわびる頃。
 その日は流の卒業式だった。
 取り立てて変わったことのない、高校の卒業式。来賓の祝辞がBGMのようにつらつらと流れている。退屈な時間だが、それが終われば学校という束縛から解放される。流は重たい目蓋を無理矢理押し上げた。
「続いて、文部科学大臣――水無月様」
水無月、と聞き覚えのある苗字に、流は目が覚めた。
「おい、流。あれ、お前の父ちゃんだよな?」
「あーそういえば親父が来るとか何とか言ってたな。まさか祝辞読むとは」
壇上で堂々と原稿を読み上げる初老の男性は、この国の文部科学大臣という肩書きの他に、涼と流の父親という肩書きを備えている。
「……あれを親と思ったことなんて、一度もないけどな」
「流、何か言ったか?」
「いや別に」
 そっけなく答えたものの、その瞳には嫌悪感と敵意が混じっていた。
 祝辞を終えた男性は壇上で、流の席を一瞥する。その冷ややかな態度に、流はますます不機嫌になった。思わずしてしまった舌打ちに、近くの席の数人が肩をすくませる。仮にも学校では不良の頭として恐れられた流だ。卒業式なので制服はきちんと着ているが、その程度では、人の雰囲気は変わらないらしい。
「別に怒ってねーよ」
小声でそう言うと、何人かが露骨に安心していた。それが更に苛立ったが、我慢してやることにした。全部あいつの所為だと、父に責任を押し付けた。
 これが終わったら、兄貴の研究所に行こう。
 そう決めた後は、先程の父の一瞥も気にならなかった。


「卒業おめでとう御座います、流さん!」
「おめでとー」
 研究所に行くと、雪子と涼に出迎えられた。雪子はともかく、涼が出迎えに来るのは珍しい。
「あ、有難う」
流は戸惑いながら礼を言う。
「今日は夕飯、食べていって下さい。私が作りますから」
「でも、母さんが――」
「私が連絡しとくよ。あの人は父といる時の方が幸せそうだから」
 流の返事も聞かずに、涼は電話をかけに行った。
「あれ、涼さん、携帯電話持ってますよね?」
水無月家の事情を知らない雪子は、当たり前の疑問を口にした。流は他人事のように解説する。
「携帯の番号、親に知られたくないんだと。……兄貴は、両親が嫌いなんだ。親父は仕事にかかりっきりだったし、母さんは兄貴のことを避けてた。多分母さんは、日増しに賢くなっていく兄貴が怖かったんだろうな。気弱な人だから。兄貴も兄貴で、九歳で大学に入って以来、母さんと一度も顔を合わせてない。
 小さい頃から天才と呼ばれてきた兄貴は……簡単に言うと、親の愛情ってやつを知らないんだ。まあ、俺も親父のことは嫌いだけど」
 最後の一言は、恐らく雪子の耳には入っていなかっただろう。親の愛情を知らない。その言葉を聞いた途端、涼の行った方向へ駆け出していた。
 一人取り残された流は、
「今日の主役は俺じゃねーのか」
少しだけ愚痴を言った。その表情は、とても柔らかかった。


 自宅の番号のボタンを押す。電話帳には、登録していない。それでも記憶に残っているその番号は、涼が忘れたいものの一つだった。
「――はい、もしもし」
他所行き用の、オクターブ高い女性の声。少し老けたな、と受話器の先の相手を思い出し、涼は苦笑する。相手の顔は、既に忘却の彼方だった。尤もそれは、相手も同じだろうが。
「涼です。流はこちらで夕食とるので、用意しなくて大丈夫です。では」
要件だけを短く告げる。そのまま受話器を置こうとすると、
「待って!ねえ、涼。たまには、家に帰ってきてくれない……?お母さん、あなたに会えなくて寂しいわ」
 涼の周りの空気が、凍りついた。
「…………寂しい、だと……?」
思わず鼻で笑う。
「笑わせるな。私を見捨てたのは、貴女の方だ」
感情のない冷たい声。それに反するかのように、涼の表情は嘲笑に変わる。
「貴女にとって私は、自分の地位の為の都合のいい道具でしかないのでしょう?父の部下として動く私が、そんなに誇らしいか」
「違うのよ、涼!」
「これ以上母親面するな!……それといい加減、流に依存するのも止めたらどうですか」
ゆっくりと受話器を離す。女性がわめく声が聞こえるが、答える言葉は、もう持ち合わせていない。
「私が声を荒げるとは、ね……。らしくないことをした」
 電話は切れたようだ。つー、つー、と、無機質な音が響いている。涼はようやく受話器を置くと、壁に背を持たれかけた。
 と、部屋のドアが勢いよく開いた。そこから入ってきたのは、
「雪子…………」
肩で息をする、雪子だった。
 雪子は躊躇することなく、涼に抱きついた。
「なっ……!」
ぎゅう、と身体を締め付けられる感覚に、涼は驚きを隠せなかった。初めて感じるようで、それでいて、どこか懐かしい気がした。
「……涼さん、親は大事にしてください」
涼の胸に顔をうずめたまま、雪子はくぐもった声で言う。親、という単語に、涼は少し表情を曇らせたが、その先の言葉に耳を傾けた。
「親がいたから、私達は生まれてこれたんです。涼さんのご両親は、きっと、接し方が少し不器用だっただけですよ」
 涼は視線を前に向ける。窓の外。葉を付けず淋しげな木の枝に、メジロの巣が見えた。
「私は、涼さんと流さんを産んで、育てて下さったご両親に、感謝しているんですよ」
親鳥が、口に餌をくわえてきた。巣の上でホバリングしながら、口ばしを伸ばす。
「だって、こうして涼さんと出会えたんですから」
巣の中から、小さな口ばしが二つ見えた。餌をもらおうと、懸命に首を伸ばしている。やがて餌を受け取ると、親鳥はまた何処かへ飛んでいった。
 涼は雪子の頬を、両手でそっと包んだ。雪子は予想外の動作に目を丸くしている。その表情がとてつもなく愛おしくなって、
「私も、君に会えて――」
唐突に、唇を重ねた。はらりと落ちる涼の横髪が、雪子に触れた。
 会話が止み、静寂に包まれる室内。流は扉の外で、その様子に気付いていた。部屋に入るような野暮なことはせず、窓の外に目をやった。
 外の巣には、取り残された二羽の小鳥。その内の一羽が、今にも飛び立とうと、ぱたぱたと羽を動かしていた。