Ryo〜call you, again〜



 桜並木がライトアップされている。葉桜になりつつあるが、それでも幻想的な美しさは変わらない。
 それとは対照的な、灯りの消えた研究所。その前に一台の高級車が止まる。黒塗りの車から、初老の男性が降りてきた。文部科学大臣――涼と流の父、その人だった。
 研究所のロックを解除して、大臣は中に入る。勤務時間を終えた施設は、死んだように静かだった。その廊下を、大臣は慣れた足取りで進む。
 廊下の突き当たり。電気も点けずに部屋に入ると、目の前に大きなモニターが姿を現した。
「そこで何をしているんですか。――父さん」
背後からから突き刺さる声。大臣が振り返ると、
「涼か。まだ起きていたのか」
白衣姿の涼が、不機嫌極まりない様子で立っていた。
「ただの視察だ。すぐに終わる」
「なら堂々と昼間に来れば良いでしょう。あなたにお見せ出来るものなど何もない。お引き取り下さい」
 涼の制止も聞かず、大臣はつかつかとモニターに歩み寄る。
「もとは私の研究だ。涼、お前はそれを引き継いだに過ぎない。ならば私にも、研究を知る権利がある。聞くところによると、お前はプログラム上必要のないことを、情報にインプットしているそうだな。――『桃太郎』の話など、情報には必要ない」
「私が何をしようと勝手でしょう。自ら研究を提案したにも拘わらず、突然研究を放棄した人の言葉とは思えませんよ」
モニターの電源に伸ばした大臣の手は、涼に掴まれた。
「今は私の研究です。邪魔をしないで頂きたい」
涼の眼鏡の奥の瞳は、怒りに燃えている。それを感じ取ったのか、大臣は手を引いた。
 そしてその手で、涼の頬を叩いた。高らかな音が、暗い室内に響いた。
 床に落下する眼鏡。衝撃でレンズにひびが入ったようだった。
「口答えを許した覚えはない。お前は私の言う通りにしていれば良い」
冷徹。その単語が一番当てはまる男は、興ざめしたように、涼に背を向けた。
「忘れるな。お前がここから逃れられないことを」
父が遠ざかっていく。車のエンジン音が去っても尚、涼はその場に立ち尽くしていた。
 「涼さーん、どうしたんですかー?」
眠たい目をこすり、雪子が寝巻き姿で研究室に来た。今日は研究が長引いたので、所内の仮眠室で寝ていたようだ。
「早く寝ないと、明日起きられませんよ」
 そして涼の顔を覗き込むと、雪子の眠気は一瞬で吹き飛んだ。
「その顔、どうしたんですかっ?腫れてるじゃないですか!」
「…………君には、関係ない」
そう言ってそっぽを向く涼に、
「関係ありますよ!私は涼さんの全てを受け入れるって、決めたんです!」
その手を握って、雪子は断言した。
「私はきっと、君に相応しくない」
涼の指は、氷のように冷たい。
「私は上司に――父に監視されている。父は私を、自分の命令を遵守する機械のようにしか思っていない。そんな私と一緒では、君は幸せになれないよ」
指先は小刻みに震えている。雪子はその指先を温めようと、自分の胸に、涼の手を押し付けた。
「――!」
驚いて、涼は雪子の方を向いた。雪子の鼓動が、その手を伝って、直に伝わってくる。
「涼さんは涼さんです。機械なんかじゃありませんよ。だから、一人で悩まないで下さい。私が全部、受け入れますから」
 聖母のような雪子の笑顔に、涼は気持ちを抑え切れなかった。泣きそうな表情で、雪子を抱きしめた。しかし涙は出ない。涼はまだ、感情を表に出すことが出来ないでいた。
「ほら、明日もお仕事あるんですから。今日はもうお休みになってください」
雪子はそう言って、涼の背中をさする。涼の呼吸が落ち着いてきた頃合を見計らって、仮眠室に戻ろうとする。
 しかしそれは叶わず、雪子は制止した。服の袖が、何かに引っかかっている。袖の先を見ると、涼の手があった。
「……涼さん?」
涼の表情は髪に隠れていて分からない。しかし自分が必要とされていることが分かると、
「私はずっといますよ、あなたと」
雪子は涼の傍らに、そっと寄り添った。
 そして二人は、研究室を後にした。自然な仕草で腕を絡ませたのは、一体どちらが先だったのだろうか。あるいは同時だったのかもしれない。互いの体温を、感じていたかったのかもしれない。
 まだ肌寒さの残る春だったが、温かい一夜だった。