Ryo〜call you, again〜



 蝉の鳴き声が頭から離れない。そんな思考が停止しそうな暑さも、研究所では苦にならなかった。
「クーラー効かせ過ぎだ。こんなところに一日中いたら、風邪引くぞ」
「流は外から来たからそう思うだけだよ。私は外出しないから問題ない」
「違う意味で問題あるだろ、それ」
兄弟の会話は、淡々と続いている。仕事の合間に研究所に立ち寄った流は、壁に備え付けられたパネルを操作し、ゴウゴウと唸るクーラーの温度を、兄には内緒で五度ほど上げる。吹雪のような風が弱まると、震えていた他の研究員に感謝された。そして流は、涼の隣に置かれた椅子に遠慮なく腰掛けた。
「兄貴もたまには外に出ろよ。折角の夏だ。海に行けば良いもの見れるぞ」
「良いものって?最新型のマイクロチップとか?」
「それは海に行かなくても見れるだろ。あれだ、その、水着の――」
 流がさりげなく説明しようとしたその時、
「涼さん、これ、どう思います?」
ノートパソコンの画面を涼に見せながら、雪子が会話に乱入した。
「第二研究室で組まれた新しいプログラムなんですけど、これだと使用法を改良しないと難しいんですよね……」
「ああ、良いんだ。今度のは、従来とは違うやり方を試す予定だから」
涼の表情が明るくなったのは、研究の話題だからだろうか。きっとそれだけじゃないだろう、と流は諦めたようにため息を吐く。今自分が座っているこの椅子。きっと本来ならば雪子の席なのだろう。
 春先からだろうか。最近急激に、涼と雪子の仲が親密になっていた。研究員達もその様子には気付いているようで、休憩時間になる度に二人のやりとりを眺めては、若いって良いねえ、と年寄り臭いことを言う者もいる。涼のコミュニケーション能力も以前よりは少し向上したらしく、仕事がやりやすくなったと、わざわざ流に報告してくれる者もいた。
 しかし当の本人達は、研究員たちが期待しているような色事ではなく、何やら小難しい話題で盛り上がっている。
「これで会話の内容が人並みになれば、良いカップルに見えるんだけどなあ……」
兄には聞こえぬように流が呟くと、周りの研究員が数人笑ってくれた。
「まあ、これはこれで良いけど」
覚悟を決めて、流は椅子から立ち上がる。
「あれ、もう帰るの?」
「これでも忙しいんだよ。出前の器、回収しに行く時間だ」
 高校を卒業後、流は飲食店の厨房で働いている。と言っても、まだ見習いなので、出前やら食器洗いやら、雑用がほとんどだ。それでも別段困ることなくこなせるのは、長年涼の世話をしてきたおかげかもしれない。
「流さん、お仕事頑張って下さいね」
 雪子の声援を受け、流は快適な室内を後にする。玄関の扉の向こうには、灼熱の大地と熱風が待っている。意を決して足を踏み出すと、止まっていた汗が噴き出してきた。思わず後ろを振り返るが、戻るわけにはいかない。
「これじゃあ外出しろなんて言えないな。兄貴だったら確実に溶ける」
 額の汗を拭い、バイクに飛び乗る。バイクと言っても、出前用に後部座席に長方形の箱のようなものが付いているので、スクーターに近いかもしれない。炎天下に止められていたため、座席もハンドルも、火のように熱かった。流はふと思い出し、ズボンのポケットから長年愛用している定期入れを引っ張り出す。
 中に入っているのは定期ではなく、一枚の写真。卒業式の日に撮った、三人が写った唯一の写真。
「この時よりは、自然に笑えるようになったんじゃねーの?雪子さんのおかげ……か」
自分には出来なかったことを、たった数か月でやり遂げてしまった雪子。悔しいが、負けを認めるしかない。  携帯の画面で時間を確認すると、時刻は既に14時を示していた。15時までには戻ってこいと言われていたことを思い出し、流は慌ててバイクにキーを差し込んだ。急発進しないようにブレーキをしっかり握る。
「――熱っ!」
文句を言っても仕方ない。流は仕事を少しでも早く終わらせようと、エンジンをかけた。

 普段涼は、第一研究室で行われている情報{データ}創りを担当している。しかし所長として、第二研究室の視察をしないわけにはいかなかった。
「新しいウイルス、順調なようだね」
 第一研究室に比べて狭い室内。配置されている人員も、それほど多くはない。女性が二人と、山の男という表現がぴったりな男性と海の男という表現がぴったりの男性。涼以外には、それだけしかいなかった。
「言われた通り、散布出来る形状にはした。……しかしこれは、あまりにも危険ではないのか?」
山の男のような男性が言った。
「何に使うかは知らないが、このままでは強力な生物兵器になってしまうぞ」
海の男のような男性が言った。女性達は、ウイルスの入っているタンクを点検している。
 涼は二人の意見には答えない。その代わり、タンクに近づくと、
「全ては実験次第だ」
隠し持っていた試験管を取り出した。密閉できるように、口の部分にはゴム製の蓋が付いている。
「待って下さい!まだ試作段階です!取り出したりして、もし事故が起こったら……」
「それに、ウイルスが研究所の外に出たらどうするんですか!」
女性達は、タンクの前に立ちはだかった。
「仮定だけでは、研究は進まない。責任なら私が取る」
きっぱりと言い切った涼に、四人は降参せざるを得なかった。
「君達は外に出ていなさい。この程度のこと、私だけで充分だ」
 人払いをして、涼はタンクの鍵を外す。
「……君達に、もしものことがあったら大変だ。私はまだ、有能な助手達を失うわけにはいかないからね」
目には見えない試作品を試験管に少量移し、すぐに鍵をかけ直した。慎重に作業を行ったが、それでも恐らく研究室内にはタンクの中身が浮遊しているだろう。
「ここはしばらく、私以外は立ち入り禁止だね」
 涼は隣の部屋で消毒をし、シャワーを浴びた。衣服は全て新しいものに取り替えた。今まで着ていたものは、厳重に外気と遮断して処分した。それからパネルを操作して第二研究室の消毒を行う。これでほとんどのウイルスは死滅したはずだ。
「本当はこんなもの、私だって求めてはいないさ」
 消毒した試験管を手に、涼はひとりごちた。