桃太郎

第二十二話「remember」


 その日は、憎らしいほど爽やかな天気だった。
 雲一つない青空に、紅くなり始めた木の葉。
 風の音が大きく聞こえるほどに、辺りは静かだった。
 季節は秋。
 そんなあの日と、何一つ変わらない音がする。
 耳をつんざくような、風の音が。

*        *              *              *        *

「お父さま、どうして“てんのー”は政治をしないの?」
「やる必要が無いからだよ。私達がしなくても、国民達が勝手にやってくれる。――それに私達は、この国の象徴として存在しているだけで良い」
「でも昔は、わたしたちのご先祖様は、政治をしていたのでしょう?それなのに今はやらないなんて、そんなの変だわ」
 豪華な中庭に、一人の少女とその父親がいた。
 少女の父親、つまりこの国の天皇は、まだ若く、少し経験不足ではあったが、それでも国民から慕われる程度の人柄は備えていた。
 だがそれも、所詮表向きの顔に過ぎない。少女はそう思っていた。
 少女――この国の次期天皇――は、まだ顔にあどけなさは残るものの、なかなかのキレ者だった……と自負したい。
「お父さまは、いつも大事なことを忘れているわ」
「……何かな」
「この国が、わたしたちの力ではなく、国民の力で成り立っていることを。このお屋敷だって、税金で建てたものでしょう?だったらもっと、質素な造りにすれば良かったのに。こんなの、お金のむだづかいよ」
 少女の言う通り、この屋敷は無駄に広かった。室内は不要な飾りで埋め尽くされ、明らかに税金の無駄遣いだと思える物も多かった。
 例えば、この中庭。英国風の屋敷には不似合いな、日本風の庭園。池の中では、気持ち良さそうに鯉が泳いでいる。池に架けられた橋は、何故か大理石で造られている。
 そして一番の無駄遣いはといえば、敷地内にある飛行場だろう。
 飛行機好きの父は、休日になると自ら飛行機を操縦し、空の散歩を楽しんでいた。無論私も、父が操る鉄の塊に何度も乗せてもらった。
 昔の私と父は、よく格納庫の中でお茶を飲みながら話したものだ。

「天皇は国の飾りだ。貧相な天皇なんて、隣国から非難の的にされるに決まっている」
少女は肩をすくめた。
「確かにそうかもしれないわね。でも、天皇の趣味が悪いのも、どうかと思うわ」
「――お前、今日も一日中そこにいろ」
 今日、も。そう、今日もなのだ。
 私は父に会うと、決まってこの話題を持ちかけた。
 “何故天皇は政治をしないの”と。
 私が昔から胸に抱き続けた疑問だ。
 何の為に生まれ、何の為に生きているのか。この場所に生まれた意味を、確かめたかったのだと思う。
 父の返答は、いつになっても納得出来なかったし、共感も出来なかった。
 こうして今日も、少女は一人格納庫に取り残されたのだった。

 ある日、私は父にある質問をした。
「お父様は、政治をしたいとは思わないの?」
返答次第で、次の手段を決めるつもりだった。
「政治?あんなこと、国民達に任せておけば良い。私はこうやって、税金に養われているだけで満足だ」
 私は悟った。
 この国は、腐っている。
 税金を大切に扱わず、自分の欲望だけを満たすものを頭としているこの国。それを知りながら、行動を起こさない国民。何も出来ない私。
 ――なんと無力なことだろう。
 変えなければ。この国が、完全に終わってしまうその前に。

 そしてそれは決行される。ある休日の空の上で。

 その日、少女は父と飛行機に乗っていた。
 操縦桿を楽しそうに握る父に、少女はいつもの話題を持ちかけた。
「お父様、政治をする気はない?」
父はうんざりした表情になった。またそれか、と顔に書いてある。あからさまに否定されたようで、良い気はしなかった。
 もう、耐えられなかった。
 少女は、自分の腰にある冷たいものをつかむと、父の背後に忍び寄り、それを一気に引き抜いた。
 現れたのは、不気味に黒光りする小さな鉄の塊。
 安全装置は、既に外されていた。
 そして少女は、父の後頭部に銃口を突きつけた。
「――!」
父は一度身体を震わせると、振り返って私を見た。その目は大きく見開かれ、恐怖で顔の筋肉が強張っている。
 そんな父に、少女は冷たく言い放った。
「もう一度だけ聞くわ。――政治をするつもりは、ない?」
 いつもなら、普段通りの他愛のない会話。いつもなら。
「な、何故お前はそこまで政治にこだわるっ?私には、それが理解出来ないっ!」
わめくその男の姿は、何とも滑稽だった。
 逆らうことの出来ない力の前に、父の地位も権力も無力と化した。
「そもそもお前は、何故天皇が政治に介入しなくなったのか、考えたことはあるのか」
力に酔いしれた少女には、その言葉も、冷静になった父の態度も届かなかった。良い気になっていたのは、私の方だ。

 私が目を離した瞬間、父は動いた。
 父は少女の手から拳銃をもぎ取ると、立ち上がった勢いで私を投げ飛ばした。機体の操縦は、いつの間にか自動になっていた。
 ――しまった、殺される。
「ごめん、な」
「え………?」
 父は一目散に、非常ドアを開けた。私がついてこないように、銃口をこちらに向けながら。
 凄まじい強風に目を覆った瞬間、父は飛び降りた。
 パラシュートは、背負っていなかった。ただ下に、石ころのように落ちていった。

 その日の空は、今でも覚えている。
 憎らしいほど爽やかで、雲一つない青空。
 紅くなり始めた木の葉。
 ゴウゴウとうなる風の音だけが、いつまでも私の耳に残った。
 季節は秋。
 私は毎年、この季節になると、このことを思い出す。思い出したくない過去を。

*        *              *              *        *

 そうか。私は飛べなかったんじゃなくて、飛ばなかったんだ。
 あの空に、父のことを思い出してしまうから。
 ――でも、もう良いよね。
 私の中の私が問う。
 ええ。良いわよ。……あんたと生きる覚悟は出来た。
 
 黒い羽が、大きく羽ばたいた。