桃太郎

第三話「名前」


 「でも、良い名前だろう?」

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 涼子、か……。
 確かに、アイツが選んだだけのことはあるかもしれないな……。
 涼子なら、大丈夫だろう。
 きっと、この世界から――。


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 桃は、陸に上がった。
 その桃が硬い金属製であったため、食べられないことを知った村娘は、
「はぁ………」
ものすごく落ち込んでいた。
「せっかくこんなに大きい桃が食べられると思ったのにな……」
よほど食べたかったのであろう。あきらめきれない村娘は、しばらくその金属の塊を撫で回していたが、
「…………!」
やがて、“それ”を見つけた。
 “それ”は、赤く丸いボタンだった。小学校で押してはいけないと教えられていた、非常ベルのボタンのような。とどのつまり、少しでも常識のある者なら、怪しがって押さないようなボタンである。
 だが、この村娘の行いは、常人のそれを遥かに覆すものだった。
「……何だこれ。押せるのか……?ま、いっか。押しちゃえ」

 ――ポチッ。

 お約束の効果音を出しながら、ボタンはその役目を果たした。先ほどまで傷一つ無かった桃が、綺麗に半分に割れたのだ。
 桃の中には小さな人影が一つ。背格好からして、おそらく性別は女だろう。
 普通なら、昔話によく出てくるような、綺麗なお姫様が出てくるところであろう。
 だが、この少女――涼子には、否、“今の涼子”からは、そんな気品は欠片も感じられなかった。
 「もう!何なのよ、一体!」
「はぁ……?」
 開口一番、叫んだ台詞がそれだった。これではお姫様というより、おてんば娘という単語の方がよく似合う。
 涼子はつかつかと村娘に歩み寄ると、
「アナタが村娘?」
ものすごい形相で質問した。
「え……?まぁ、確かに、村には住んでいるけど……」
 すると涼子は、村娘の肩に手を置いて、
「……助かった!」
「はい……?」
それだけ言うと、へなへなとその場に倒れこんだ。

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「…………ここ、は……?」
「私の家だよ」
 涼子が目を開けると、そこはお世辞にも広いとは言えない、昔ながらの民家だった。
「アナタが、私を……?」
「そうだよ。あんな所にほったらかしといたら、風邪ひいちゃうからね。そういえばあんた、名前は何て言うんだい?」
「水無月、涼子」
それを聞くと、村娘は、少し切なそうに笑った。
「――そっか。良い名前だね」
「お父さんが付けてくれたの。アナタは?」
 村娘はその問いには答えず、俯いた。

 「……そんなもの、無いよ」
「え……」
しばらくの沈黙のあと、村娘はおもむろに口を開いた。
「そんなもの、私には無いよ。名前も、親の愛情も……。――水、汲んでくるよ」
 背を向ける少女に、涼子は、声をかけずにはいられなかった。
「待って!じゃあアナタは、村では何て呼ばれてるの!?」
 少女は足を止め、ゆっくりと振り返った。
「私のところには、もう、誰も来ない……。――もう、誰も」
寂しさをたたえた表情を残し、少女はその場から立ち去った。

 村娘が水汲みから帰ってくると、
「お帰りなさい」
涼子が笑顔で迎えてくれた。
「た、ただいま」
 家は前より、何だか暖かくなっていた。
「あんた、火を……」
「ええ。外は寒いから、家ぐらい暖かい方が良いでしょ?」
まったくもって、その通りだった。水汲みから帰ってきた少女は、少しだけ体を震わせていた。
「――そうだ」
「……?」
「アナタにね、良いモノあげる」
 涼子は唐突に、そう切り出した。
「……へぇ、どんなものだい?」
「アナタの、名前」
「――っ!」
村娘は、驚きを隠せなかった。
 

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 そういえば、前にもこうやって言ってくれた人がいた。
 そいつはお世辞にも親切とは言えないような奴だったけど、でも、私にとっては、かけがえのない人だった。そいつが私に付けてくれた名は――

「林{リン}」
 一瞬、あいつが帰ってきたのかと思った。だってあいつが付けてくれた名も、“林”だったから。
「森ってね、最初は一本の木しかないの。でも、いつかたくさんの木が集まって、森になれる日が来るから。だから――」
そう言うと、涼子は私に歩み寄った。今度は、ゆっくりとした足取りで。
「だから、今は林。アナタと、私」 
「あんた……」
「どう?気に入った?」
 視界が霞む。目の前にいる彼女が、白くぼやけている。今の私には直視できないぐらい、眩しい。
「……あぁ。私の名前は、“林”だ。――ありがとう、涼子」
 
 どうしてこんなにも、彼女を見ることが出来ないのだろう。どうしてこんなに、彼女は眩しいのだろうか。
 霞む、視界。
 ぼやけて、見えない。
 こんなにも嬉しいのに。
 そう。あいつが私に名前を付けてくれたときのような、そんな、嬉しさ。

「もう、林ったら!泣くか笑うかどっちかにしなさいよ!」
「え……?」
 
 ――ああ、それで霞んで見えたのか。
 
 林はそこで初めて、自分が泣いてることに気付いた。恥ずかしそうに涙を拭うと、改めて涼子に向き直り、微笑んだ。
 涼子は、そこで初めて林と目を合わせた。
 林は、長い髪を無造作に二つに束ねた、薄汚い衣をまとった少女だった。
 だが、今の林は、どんなに着飾った者よりも、綺麗に見えた。

 新たな種は、今、芽吹いたばかりだった。