紡ぎ詩

三.「そして僕は、掴みきれない思いを抱く」


「まもなく、列車が参ります。危険ですので白線の内側に――」
 そんなアナウンスが流れたと思った刹那、電車が僕を一瞬で追い抜いた。勝てるはずがないと分かっていても、ついつい張り合いたくなるのは僕だけだろうか。必死に自転車を走らせたところで勝てるはずもないし、勝算のない勝負の為に使える労力なんて、生憎持ち合わせていない。
 今だからこそ冷静にそう思えるが、つい一年ほど前までは違った。
 本気になれば何でも出来ると思っていた中学時代。今思えばとても浅はかで、少し羨ましい。

「本当に志望校はここで良いのか」
 中学三年生の頃、担任にそう言われた。
「今のお前のレベルだと、相当頑張らないと無理だぞ」
 男勝りのこの女教師は、いつでもストレートに言葉を紡ぐ。何でも昔、二年間ほどアメリカに留学していたことが、この性格の原因らしい。そんな彼女の担当教科は、もちろん英語である。
「大丈夫ですよ。人間その気になれば何でも出来ますって」
「そこまでしてこの高校に行きたい理由は何だ」
納得できないという表情を、そうも素直に浮かべられては、こちらも少し困ってしまう。しかしごまかすと、もっと面倒なことになりそうなので正直に答えた。
「……僕の尊敬している人が、そこにいるんです」
 憧れていたのは、ある先輩だった。そこまで親しかったわけではない。接点のない有名人に憧れるような感覚で、僕はその人のことを見ていた。
 そしてその先輩は、今この高校で生徒会長をしている。

「成瀬、一分遅刻」
「それくらい多めに見てくれよ、速水」
 休日にも拘らず足を踏み入れた生徒会室。そこでは余裕の表情の速水が、腕時計を見ながらニヤニヤしていた。……また負けた。
「そんな君も、ついさっき来たばかりじゃないか」
 後ろから聞こえた声に振り向くと、
「会長!」
「ああ、成瀬君も来ていたのか。おはよう。今日は寒いな」
私立北条高校第十五代生徒会長、篠田明美先輩は、僕の傍らを通り抜けて、自分に割り当てられた席に着いた。
 初秋とはいえ、いきなりの気候の変化に対応することは難しい。寒いな、と言う言葉の通り、会長は制服の上に黒いジャケットを羽織っていた。もともと黒を基調とした制服ではあるが、ジャケットのせいか今日の会長はいつにも増して黒ずくめだ。艶のある黒髪のポニーテールが、服に同化して見える。
「呼び出しておいて言うのも悪いんだが、私は午後から部活があるんだ。午前中に作業を終わらせてもらえると有難い」
 ぼーっとドアの辺りに立っていると、会長にそう言われた。慌てて近くの席に着き、ノートパソコンを立ち上げた。

 部屋の中は、一見すると職員室のようである。向かい合わせに机を六つ並べ、特等席のように、その机の群れから一つだけ机が飛び出している。会議の時の議長席のようなその席が、会長の定位置だ。僕や速水をはじめとする他のメンバーの席は特に決まっていない。今日僕がとっさに座った席は、会長の斜め前だった。
 起動中のパソコンのパネル越しに、会長をちらりと見やる。
 黙々と作業をしているその姿は凛としていて、この高校に入ったことは間違いではなかったのだと、いつも感じさせてくれる。
 そうは言っても、会長に対して恋愛感情のようなものを持ったことは一度もない。しかしそのことを話すと、妹の真樹にはいつも、「そういうのが『好き』ってことなんだよ」と呆れたように返される。
 初めて会ったときからこの人に抱いていたのは、ある種の崇高な尊敬だった。

「君、夏目漱石の『こころ』を読んだことはあるかい?」
 それは中学二年の頃のある冬の日。学校の図書室で本を読んでいると、向かいの席に座った彼女に、そう声をかけられた。思わず机の下に目をやり、上履きの色から一学年上の先輩だと確認する。
 僕の記憶が確かなら、この人とは初対面のはずだ。
「読んだことはあります……一応」
「では君は、何故先生が自殺したと思っている?」
またも質問で返された。しかも物語の核心的な部分をいきなり聞かれた。
「それは………」
 緊張しつつも、自分の考えを口に出してみた。
「先生は、自分の存在している意味が見出せなくなってしまったんじゃないでしょうか。だから、自分というものが……何というか、空気みたいに、そこに在るのに感じられないものだと思って――」
「なるほど、空気か。君はなかなか面白いことを言う」
はっとして前を見ると、彼女は我が意を得たとでもいうようにニヤリと笑った。
 初対面に人にいきなり熱弁をふるってしまったことに今更気付いた僕は、恥ずかしくて席を立った。
「で、では僕はこれで……」
「――空気というのは、普段は感じられないが必要なものだよ。生きていくためには」
 どうやらその言葉は僕に向けられたもののようだった。その続きが気になって、再び椅子に腰を下ろした。
「何だ、帰るんじゃなかったのか」
きょとんとした表情を浮かべた彼女は、しかし悟ったように微笑むと、
「つまりはさ、先生はどこかで、自分の存在を誰かの為に不可欠なものだと思っていたんだよ。つかみどころはないけどね」
どうやら僕の考えに共感してくれているらしい。何だかこの人もつかみどころがない。
「では、今度は僕のほうから質問しても良いですか」
 こちらだけ何も分かっていないままでは後味が悪いので、思い切って話をふってみた。
「先輩は、どうして先生が自殺したと思っていたんですか?」
「大方は君と同じだよ。…そうか空気か、本当に君は面白い」
また空気のように、彼女は僕の手をすり抜けてしまった。負けた、と思った。
 敗北を知らせるゴングのように、下校の校内放送が鳴り響く。諦めて今度こそ席を立とうとしたが、ふと思い出して尋ねた。
「先輩、名前教えてもらっても良いですか」
「名前?――ああそうか、言ってなかったね。私は篠田明美だよ、二年の成瀬靖人君」

 どうしてこの人は、僕の名前を知っていたのだろう。今になって思い返せば、先輩は中学の頃も生徒会役員をしていた。しかも僕の所属していた委員会の委員長だ。といっても、新しい委員会での顔合わせは、この二日後のことだったが。
「雨か……。今日は傘を置いてきてしまった」
 会長のその声で、僕は現在に引き戻された。窓の外には黒い雲が浮かんでいて、既に小さな水溜りを作っていた。
「会長、どうしますか?成瀬の奴、折り畳み傘持ってますけど」
「え!速水、何を勝手に――」
「いや、私なら大丈夫だ。部室はすぐそこだし」
思わず納得しかけたが、よく考えてみると会長のいう部室――剣道場までは、今いる本棟からは二キロメートルほど離れている。
「俺たちなら心配いりませんよ。成瀬は俺の傘に入れば良いし」
「え!」
「そうか、すまないな。成瀬君、悪いが貸してもらえるかな?」
「え、あ、はい!」
 僕は鞄の中から黒い折り畳み傘を取り出し、会長に渡した。ますます会長が黒ずくめになってしまった。

「じゃあ二人とも、お疲れ様」
「お疲れ様でした」
「おつかれーっす!」
 会長は僕の傘を手に、生徒会室を後にした。
 僕はパソコンをシャットダウンしながら、先程のやり取りを思い出し、
「速水、傘持ってるならお前のを貸せば良かったじゃないか」
「ん?嫌だったか?」
「嫌じゃないけど……」
どうにも腑に落ちない。そんな僕を見かねたのか、速水はニヤッと笑って
「良いじゃねーか、人が折角気を使ってやったんだ。素直に受け取れ」
「はあ?何が」
 帰り支度を整えて、僕と速水は昇降口に向かう。外ではまだ、雨が水面を揺らしている。
「今日もお前、会長にご執心だったぜ」
「だから、いつも言ってるだろ。僕のはそういうのじゃなくて――」
「じゃあなんなんだよ」
速水は自分の傘を僕に見せびらかすように振り回している。答えないと入れてくれないらしい。
「だから、その……尊敬、してるんだよ」
「ふーん」
自分で聞いておいて何だその反応は。
「まだ分かんないのか、成瀬。そういうのが、惚れるってことなんだよ」
「はあ?」
こいつも真樹と同じようなことを言う。僕だけ話が飲み込めていないような状況は、まるでこの暗雲のようだ。
 速水が開いた傘に入れてもらって、僕らは自転車を押しながら校舎を後にした。